教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』

 佐々木敦さんの著書『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』を読みました。学校の授業でのICT活用をサポートしているときに、僕が先生方に「是非やりましょう!」と言うことが多いのは、「書くこと」だと思います。特に中学校・高校の授業では、「書くこと」で自分の考えを表現することの楽しさと難しさを知ってほしいと思っています。そうした場がそもそも少なくて、それなりの量の文章を書く機会も少なくなってきているように思うからです。
 先生方と共有したい言葉を見つけたので、メモとして公開したいと思います。

書くことはどこまでも具体的な作業です。書いてしまった言葉、そこに書かれてある文字列との格闘(!)に時間を使うこと。私が言うスローライティングとは、まずこうした行きつ戻りつの運動です。そしてそうである以上、スローライティングは必然的にスローリーディングでもあります。
それはそうでしょう。ゆっくり書くということは、次の一語を時間を掛けて選ぶことであるだけではなく、いやむしろおそらくそれ以上に、自分が今しがた書いたばかりの文章を読み直すことであるからです。ことばをひねり出し、文章を書き連ねてゆく時間よりも、そこにあることばを、文章を、幾度となく逐一読み返してみる時間が、書くことを推し進めるエンジンになる。
しかし、ただ何度も読み直しているだけでは、それはやはり停滞です。実際には、書きつけた言葉を読んで、文字列を見て、細かく、あるいはより大きな単位で巻き戻し(読み返し)を繰り返しながら、そこにことばを継ぎ足してゆく。三歩進んで二歩下がる。ではなく、三歩下がって五歩進む、という感じ。自分の文章をゆっくり読むこと。そうしながらも書き進むこと。それがスローライティングです。
これってしかし、実は誰もがごく普通にしていることではないでしょうか?
そうです。私たちは普段から、文章を書く際、何度も読み返しながら書いてゆく。だからむしろ、ここで言いたいことは、そのことを意識化する、ということです。スローライティングとは、ライティングにあらかじめ潜在しているフィードバック回路のようなものにフォーカスして、それを方法化するということです。自分のことばを読み返しながら書き進めるというなんら特別なものではないプロセスを、無意識から浮上させて、能動的に行ってみること。その結果、書くことにディレイが掛かり、執筆という行為/作業はスローになる。(p.159-160)

 「スローライティング」と「スローリーディング」っていい言葉だなと思いました。特にライティングの方は、ピャッと書いちゃうよりも、ああでもないこうでもないと文章を推敲する生徒たちの姿をもっと学校で見たいな、と僕は思っています。
 生成AIと人間の「書くこと」に付いての違いも書かれていました。これもこれからの中学校・高校で先生方と生徒たちは向き合っていくことだろうと思っています。

考えながら書き、書きながら考えるとは、私たちが何かを書いている時に常にしていることです。それは何も特別な行為ではありません。考えたままに書けるなら、思考(演算処理)がそのまま文章として出力されるのなら、人間は生成AIと同じになってしまう。
思うに、ヒトとAIの重要な違いのひとつは、試行錯誤です。言語表現の場合は、ミニマムには一文字単位でトライアル&エラーを繰り返しながら、私たちは文章を書いてゆく。最初から最後まで一度も書き損じたり書き直したり書き換えたりしないでひとつながりの文章作品を書き終えることは、人間にはほぼ不可能です。
そしてむしろそこにこそ「書くこと」のマジックが、作品が作者を超える可能性が潜んでいるのだと私は思います。(p.166-167)

 最後に、「書き始めた原稿は読んでもらえ」というところもいいなと思いました。これも、学校だからこそ近くに読者になってくれる人がたくさんいるのはいいことだと思うのです。

破棄と保留と保管は違います。ともかくも終わりまで行き着いた原稿は、それだけで書き手にとっては存在価値があります。たとえそれが「完璧」から程遠くても、書き終えられたという事実が重要なのです。
もうひとつ勧めたいのは、たとえ自信がなくても、他人の目に触れるようにすることです。読者を得ること。知人友人でもいいし、何かの手段で不特定の誰かに向けて公開するのでも構わない。
そうするとしばしば判明するのは、自分が書いたものを自分が読むのと他人が読むのとではかなり評価が違う場合があるということです。ももちろん手厳しい反応もありえますが(そちらのほうが多いかもしれない)しかし欠点の指摘だけでなく、思いがけないポジティヴな読み方をされることがあり、そちらが重要なのです。
自分では気づいていない、他者に読まれてみないとわからない、自分の文章の個性や魅力、良さや強みがあったりするのです。ここがダメだといわれることは正直こたえますし、不本意に思うこともあるでしょうが、その反対に、ここが面白かったという、書いた本人もハッとさせられるような意外な感想を貰うこともあります。
それを真に受けろということではなく、そこに自分のことばの思わぬ可能性が潜んでいることがあり、それは今後役立つことがありえる。延々と自分ひとりで推敲しているだけでは、そのようなことは絶対に起こりません。(p.252-253)

 この本に書かれていたことのどれくらいまでを学校教育で実現できるかはわからないですけど、こうしたことを知ったうえで授業をしていたら、何かが変わっていくような気がしています。ICTで推敲もしやすくなったし、ドキュメントを共有してお互いに読み合ったりレビューし合ったりということも簡単にできるようになってきたからこそ、「書くこと」をどう生徒たちに伝えていけるのか、「書くこと」に使う時間をどう増やせるのか、ということを考えていきたいと僕は思っています。(学校だけでなくて、広く一般の会社員にもまったく同じことが言えると思っています)

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 「書くこと」についての本は、けっこういろいろ読んでこのブログで公開しているなあ、と思い出したので、検索してみました。

blog.ict-in-education.jp

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(為田)