教育ICTリサーチ ブログ

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『流行に踊る日本の教育 本当に大切なことは、私たちの足元にある!』 読書感想文大会

 先日、『流行に踊る日本の教育 本当に大切なことは、私たちの足元にある!』の読書感想文をアンケートにて募りました。5人の方から文章を寄せていただきました。皆様、ありがとうございました。
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 いただいた皆様からの文章、全文で紹介していきたいと思います。

現場で「次々と教育を改悪しやがって」と思っている先生方にとっては、「溜飲を下げるような内容になっていると思います。この本で一方的に断じられている「未来の教室」のスピード感が学校の先生方にとってはついて行けないものであり、自分たちの守ってきた場所を侵犯されるような不快感を覚えていた人にとっては、「気持ちを代弁してくれた」という感想になるのではないでしょうか。
ただ、そもそもの教育の問題の定義の仕方が、「未来の教室」側と教育側でズレが大きいようで言いたいことが噛み合っていないように感じます。
この本で一番ダメージを受けるのは、「未来の教室」の当事者ではなく、むしろ現場で新しいことをやろうというモチベーションを持っている人々ではないかと思います。「教育を良くしたい」という思いを共有しているはずなのに「そのやりかたは気に入らない」と後ろから殴られたような恰好になっているのが気がかりです。【匿名】

 なるほど。たしかに、「現場で新しいことをやろうというモチベーションを持っている人々」にダメージを与えるのは、双方ともに本意ではないですよね。

 楽しく読ませてもらいました。もやもやした部分より、すっきりした部分が多かったです。 
「流行に踊る」→形骸化という流れが教育の歴史のように感じています。PBLも新しいものでもなく、従来通り「探究的な学習」や「プロジェクト学習」でいいのではないかと思います。が、インパクトの問題でPBLと言っているのでしょう。5年後ぐらいには、「PBLの型をやればよい」となり形骸化すると思っています。
 学校現場では、若い教師ほど流行に踊りやすいと思います。(私も過去そうでした。)ICTやPBL、個別進度の学習などチャレンジしている若い先生は多い。ただ、何もバックボーンがないままに、新しいものに飛びつくのは危惧しています。いろいろな本を書いている実践家の先生方は、自身で研究を積み重ねてより良い教育法を編み出しているのであって、土台としての教科指導や学級経営、生徒指導なども身に着けていると思います。土台のない若手が新しいものに飛びついても効果的なのか・・・。
 外国語については、小学校では「英会話というツール」であり、教科になり得ていないと思います。なので、教科研究を行っても、表面上の方法論になり深みが出ない印象です。なので、現状は「楽しんで活動してくれればいい」ぐらいにしか考えていません。
 エビデンスは、学校現場に足りない要素だと感じています。教師は子供の様子を主観的に判断しています。ただ、見えていないこともあり、自覚する必要があります。客観的なデータと自分の主観との誤差を認識してほしいと話しています。エビデンスを有効に活用する力は教師に必要です。ただ、教育を数値で図ろうとしても、正確には図れません。子供は学校だけで成長するわけではありませんので。なので、「エビデンスがすべて」ではなく、「一つの見方」という程度のとらえでいいと思います。
 大切なことは、新しいことを取り入れながらも、学問の本質をとらえ、子供のためになることを一生懸命取り組むことだと思いました。あと、昔の人のすごい実践って、今見ても色あせないものです。不易と流行って言われますが、今の流行が不易となり得るのかを考えたいです。【M.S】

 土台となる実践があってこその新しいことへのチャレンジ、という視点はたしかに重要だと感じます。「今の流行が不易となり得るのか」は、たしかに…。

私は本書を良書だと捉えます。理由はいくつかあります。

1点目は、改革には副作用が付きものであり、副作用に無自覚でいることは危険だからです。(この点は広田照幸氏の『教育論議の作法』も併せて読むことをオススメします。)その意味で、本書は改革の副作用にもサーチライトを当ててくれています。改革がダメなのではなく、副作用を自覚した上で実践することが大切だと感じます。

2点目は、あらゆる角度から教育を捉えることの重要性を改めて提起してると感じるからです。
教育実践に正解はないからこそ、教育関係者には「知的複眼思考法」(苅谷剛彦, 1996)が求められるのであり、本書はそうした思考を鍛える良い本だと感じます。

本書を、現場の方ではなく学者が執筆していることに対して批判される方もいますが、私はこの批判に妥当性を全く感じません。色んな角度から教育の問題を提起したり、改革の副作用に光を当てたりして冷静に考えを促すのも教育学者の重要な仕事だと思いますし、本書の教育学者の方々は実際の現場でのフィールドワークも怠っていないように読んでいて感じました。【Tak.(Twitter名)@小学校教諭】

 「副作用に無自覚でいることは危険」はたしかにそのとおりです。僕も自分の言葉をふりかえらなければいけないな、と思いました。参考文献もお知らせいただいてありがとうございます!(リンク貼っておきます)

言いたいことはよくわかるけど、率直に今更すぎる!と思いました。笑
執筆者の中には、これまで大した発信も働きかけもしないで、後だしじゃんけんの方もいたのではないでしょうか。流行るのは言葉だけじゃなくて、現場の想いと合致したからであり、そうしたチャレンジを少しは応援してもいいんじゃないかなあと思いました。

この本は現場の教員や子どもにフォーカスしていなくて、響かなかったというのが素直な感想です。子どもの楽しい姿が見えない本でした。【K】

 「現場の想いと合致した」という部分は、「未来の教室」プロジェクトの授業を参観していると先生方の声からそう感じることが僕は多かったです。ただ、それと合わせて、「副作用」も考えなければいけない、ということかな、と僕は想います。

経産省文科省が打ち出す出す様々なビジョンや施策に対して,目新しいキーワードに一喜一憂せずに,しっかり立ち止まって考えましょう,ということが一冊を通して書かれています。個々の主張については「その通りだな」と思える部分も多いですが,一方で解決のしようのないように思える問題点や,言葉尻を捉えて斜め上から批判するような記述も散見されるように思いました。個別最適や英語教育,大学入試改革をめぐる議論についても,理想論としてのあるべき姿と,実際の時間やリソース,社会の要請などとの掛け合わせの関係で考える必要があります。個人的には,そのあたりがやや理想論よりになりすぎているように感じる部分もあります。
ただ,本書で取り上げられている個々の取り組みと,本書の著者の先生方の主張との間には,アプローチの違いはあれど現状の学校教育が抱える課題観や目指すべき理想形の点では大きな開きはないように感じます。文科省が「アクティブラーニング」の言葉が独り歩きすることを嫌って「主体的・対話的で深い学び」と置き換えたように,キーワードや特定の取り組みの特定の部分だけがクローズアップされて理解したような気になってしまうことはよくあることなので,その都度立ち止まって考えることはとても大事だと思います。
座談会でメインテーマとして取り上げられている経産省の未来の教室に関しては,私自身経産省の出す言葉の「軽さ」みたいなものが気になるときはありますが,逆にその「軽さ」と「わかりやすさ」が広く受け入れられて社会を動かすきっかけにもなったと思います。
教育の分野において,正解というものは望むべくもありません。いみじくも本書の中でも繰り返し述べられている通り,教育改革の歴史とは何度も同じ道を通りながらも,その時代時代で最適と思われる道を目指してきた歴史なのだと思います。「こういう問題があるからだめ」と決めつけてしまうだけでは,何もできなくなってしまいます。結局のところは常により良いものを目指して研究と実践を重ねていくしかないと思うので,様々な取り組みや実践を,問題点があるからといって闇雲に批判したり,盲目的に取り入れたりするのではなく,建設的に問い続けていくことが必要なのだと改めて感じました。【清遠】

 そうなんです、「常により良いものを目指して研究と実践を重ねていく」ということですよね。そうした点で、この『流行に踊る日本の教育 本当に大切なことは、私たちの足元にある!』を巡る議論も、「研究と実践」を重ねる過程に位置づけられればいいのだと思います。

 また、あすこま先生のブログでも、オンライントークイベントに参加しての感想が書かれていました。Facebookのコメント欄で教えていただきましたので、こちらもあわせてご紹介したいと思います。
askoma.info

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 いろいろなコメントを読むことができて、自分のなかで考える材料が増えたように思います。もう一度読んでみようと思います。

(為田)