石井英真 先生の『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』のひとり読書会も、いよいよこれで最終回、「第6章 教師の自律性と現場のエンパワメントを実現するために」と「あとがき」の読書メモを公開します。
第6章では、教師の自律性と現場のエンパワメントについて書かれていました。章の頭に書かれている文章に、石井先生の教師と現場への信頼を感じました。とても好きです。
ネットなどでは学校という大きな船自体がもはや時代遅れと言われ、内外からの批判は、そこで踏ん張って船自体を再構築するよりも、そこからの離脱へと向かわせているようにも思います。比較的余裕があり意識が高い家庭のみならず、実践者の間でもまた、公立学校から私学へ、公教育から私教育へ、学校から学校外への離脱が広がっていないでしょうか。その船が生きづらい、そこからこぼれている人たちがいることは問題で、その声を改革へとつなげていくことは必要です。しかし、船自体を壊し切ってしまうことで、その船の存在によって救われている多くの人たちが一人海に投げ出されるような状況が生じかねません。(p.169)
本当にそのとおりです。言われてもっともな批判もたくさんあると思いますし、いまの学校教育のままでいいとは思わないですが、だからって全部を「壊しきってしまう」のはよくないと思うのです。
学校外の学びの場が広がり、学校や教職の位置づけが相対化されても、ボリュームゾーンの子どもたちを包摂するのは学校であろうし、ポータブルなスキル形成のみで教育はよしとせず人間としての成長を期待したい、そのためには機械ではなく人間の教師が関わった方がよいという想定はまだまだ根強いでしょう。(p.169)
学校にも、先生方にも、できることはまだまだたくさんあると思います。
教師の学びと成長のメカニズム
教師の学びと成長について書かれていた部分は、教師の仕事の力量がいかに多様な要素から成り立っているかが伺えます。たしかにそうだなあ、と感じます。
教師の学びや成長は、個別のノウハウや技能(skill)の獲得(acquisition)という短期的に成果の見える表層的な部分のみならず、理論(theory)の理解(understanding)も契機としながら、判断力や技量(competency)の熟達化(expertise)、さらには観やパースペクティブやアイデンティティ(belief, value, and perspective)の編み直し(unlearn)といった長期的で根本的で深層的な部分を含んで、重層的に捉えられます。(p.180)
上の引用箇所にある「技能(skill スキル)」の獲得と、「技量(competency コンピテンシー)」の熟達化と、「パースペクティブ」の編み直しは、それぞれ違う省察によってもたらされる、と書かれていました。
スキルの獲得は、「いかにできたか(how)」を問う「技術的省察」によって、コンピテンシーの熟達化は、「なぜこの方法か(why)」を問う「実践的省察」によって、そして、パースペクティブの編み直しは、「何のために」「誰のために」を問う「批判的省察」によってもたらされると言えます。(p.180)
これらの省察のきっかけになるのは「失敗」であり、その失敗への向かい方や生かし方は先生にとってすごく大事である、ということが続けて書かれています。
さまざまな「失敗」経験は省察のきっかけを提供しますが、失敗にも、無知や不注意による表面的なものから、判断の誤り、さらには価値観の不良といった教師としての力量の深い部分に関わるものまでグラデーションがあります。(p.180-181)
失敗や転機を受け止め、経験から自ら学び続ける、学び上手な大人であること。その姿で子どもたちの学びを自ずと触発し、また、自ら失敗を知るからこそ子どものつまずきにも寄り添える「学びの専門職」であること。失敗への向かい方や生かし方は教師としての力量の核心に位置するのです。(p.181)
こうした教師の学びを促す省察を指導主事がサポートしていく、ということになると思います。どういう仕事が求められているのか、ということも書かれていました。
教育センター等の指導主事の役割としては、研修提供者として以上に、そして、授業スタンダード等で実践を点検したり、政策解説に終始したりする伝達的訪問指導でもなく、各学校や教師の個別具体的な実践的課題を共に考え、必要に応じて知見やリソースを提供する伴走的支援者としての役割が重要となるでしょう。(p.182)
教師たちによる現場からの実践研究の文化
先生方の学ぶ場面として、実践研究としての授業研究について語られていました。
「省察」という言葉を使っていなくても、経験から省察的に学び、現場から理論を立ち上げていくことについて、もともと日本には分厚い蓄積があります。校内研修において、授業を協働で計画し研究授業をみんなで観察し振り返ったりする、現場の教師たち自身が研究主体となった「授業研究」の伝統はその一例です。(p.185)
「授業研究」は僕ら外部の人間には一部しか見ることができないことなので、さまざまな積み上げがあるのだということが知れてよかったです。授業の実践記録について書かれている箇所は、研究授業などで見る指導案での「児童像」などの記述と紐づけながら読みました。
実践記録と呼ばれる場合、子どもたちの学習活動や姿、教師から子どもへの働きかけ、さらには、子どもたちをとりまく家庭や地域の状況や活動の事実を、実践者本人が自らの問題意識に即して切り取り、物語様式で記述したものが想定されていました。客観性を追求するより、事実の強調・省略のある物語的な記述であることで、実践記録は、実践過程のリアル(内側から体験された現実や風景や心情)を、そして、実践の切り取り方に埋め込まれた教師の実践知(ものの見方・考え方や知恵)を残り伝えるものとなるのです。
たとえば、竹澤清(2005)は、実践記録は、教師の意図と子どもたちのぶつかり・ズレと克服の過程、葛藤(矛盾)を書くものだと言います。(p.186-187)
「実践記録は、教師の意図と子どもたちのぶつかり・ズレと克服の過程、葛藤(矛盾)を書くもの」というところ、いいですね。この葛藤(矛盾)が現れてもOKなんだ、という授業が学校ではたくさん行われていてほしいです。
ゆらぐ日本型教師像と教職の仕事
学校の働き方改革についても議論が進んでいますし、学校も変わってきていると感じます。かつてできていた教育活動ができなかった、という話を聴くことも多いですね。
戦前・戦後を通して、日本の先駆的な教師たちが著した教育実践記録は、いわば「求道者としての教師の道」を説く側面も持っていました。それは日本の教師の矜持と教育実践の卓越性の基盤であった一方で、近年の教職のブラック化を教育現場の内側から支える側面もあったと考えられます。(p.191)
「求道者としての教師の道」という感じをもっている先生はいまでもいらっしゃいますね。昔はきっともっと多かったのだろうな、と思いますが。一方で、誰でも頑張れる感じにしないとサステイナブルじゃないですし。
ただ、教育実践記録がそもそも何のためだったのか、どういうことを残し伝えていく目的があったのかを明確にしてやめないと、全部が失われる怖さもあるかな、と読んでいて思いました。
教員研修を計画し、研修講師をしている自分には耳が痛い記述もありました。
「学び続ける教員」が、提示された目標や指標に向けて「研修を受け続ける教員」に矮小化されたりすることが危惧されます。(p.193)
先生を「研修を受け続ける教員」にしちゃいけないですよね…。研修で授業を標準化していく自治体の学校も見たことがあります。
各自治体における、授業の流れの一定の形や盛り込むべき要素を示す「授業スタンダード」の作成など、授業を創る仕事のマニュアル化・標準化が進行したりもしているようにも思います。(p.193)
しっかり、「何のために Why そういう授業をするのか」というのが明確になっているのであればいいのですが、「どうやって How そういう授業をするのか」が優先されてしまっているところもありますよね。考えるべきは何のため Whyだと思います。
日本型の教師の力量形成システムを再構築するために
「子どもを見る眼の解像度を上げて子どもとともに学ぶために」というトピックで書かれていた内容もとても大事だと思いました。授業後の協議会のこと、指導案のこと、いろいろ書かれています。
第4章で述べたように、授業とは、子どもが「材」と出会い、それと対話・格闘する過程を組織化することを通して、素朴な認識や生活をより文化的に洗練されたものへと組み替えていく過程です。ゆえに、授業を創ったり検討したりする際には、子ども、教材、指導法の三つの視点で考えていくことになります。(略)授業後の協議会において、指導法よりも子どもの事実を話題とすることの重要性は指摘されてきました。指導法から始めると授業者の批評に終止しがちで、授業者は授業を公開したくなくなるし、参加者の学びも少ない。授業者ではなく授業を対象化し、事実をもとに学び合うためにも、子どもの学びの事実を丁寧に検討することから始めるべきというわけです。加えて、近年、指導案において、教材観と子ども観が消失あるいは形骸化し、指導観のウェイトが肥大化してはいないでしょうか。「『分数』とは、……である」といった教材主語で教材観を書けているでしょうか。逆に、子ども観も、目の前の子ども一人ひとりや学級の具体的な育ちをふまえて、教材に即したつまずきもイメージしながら書けているでしょうか。目の前の子どもの認識や生活の現状はどのようなもので、それがこの教材と向き合い学んだ先にどう変容するのかという、学びの具体を議論できているでしょうか。(p.211-212)
最後の「この教材と向き合い学んだ先にどう変容するのかという、学びの具体を議論できているでしょうか」という問いかけが重いです。
「子どもの姿にはじまり子どもの姿で勝負できる学校へ」というトピックでは、「子どもの実態から始める」ことが大事だと書かれていました。これ、最近痛感しています。結局、子どもの実態を語り合って、子どもの実態をなんとかしたい、というのが先生方にとってのいちばんのモチベーションになるのだと思っています。
アクティブ・ラーニングやICT活用など、手法から入ると、教職員の間には抵抗も大きくなりがちです。しかし、子どもの実態から始めると、方向性も共有されやすいものです。(p.219)
各人の授業力量を高めていくだけならペアや小集団で授業を見合うことでも一定の効果はあるかもしれませんが、全教職員で同じ授業をみて話し合うことの意味は、目指す授業や学びの姿を、具体的な風景で共有していく点にあるのです。(p.220)
ここで石井先生が書かれているような要素が詰まった、ステキな授業研究や教員研修もたくさんあります。一方で、あまりうまくハマっていないな、という教員研修もたくさんあります。自分自身が関わることが多いことなので、じっくり読みました。
あとがき
最後の「あとがき」で、石井先生が書かれていたのがプロフェッショナルの矜持が見えてかっこいいです。僕も、このアイデンティティがほしいです。
自分の唯一の取り柄は、足で稼いで現場から学ぶという点だと思っています。(p.231)
次々と押し寄せる改革や変革の波に対して、それを受け止め解読する余裕や溜めのない現場の状態を見るに、現場に近いところで、防波堤やクッションをもう少し手厚くする必要があるのではないかと思います。真に受け止めるべきことを整理して、現場に対して、正解を示すというより、ラディカルに問いを投げかけ、議論の空間を少しでも担保する。そうして、現場において、自分たちの実践とそれを語る言葉が、そして専門職としての自信が積み上げられていく。本書がその一助となれば望外の喜びです。(p.231)
まとめ(というか、気づき)
長期間にわたって読んで、メモをとって、ブログにまとめて、とやってきたひとり読書会ですが、これにて最終回となります。今回読書メモを公開した第6章は、教員のスキルアップの話、授業研究の話、教員研修の話、どれも自分自身のいまの仕事に直結しているテーマだったので、深くうなずきながら読みました。もっともっとできることがありそうです。
日々、頑張っていこうと思います。読んでいて自分にすごく気合いが入った「第6章 教師の自律性と現場のエンパワメントを実現するために」と「あとがき」でした。
(為田)