教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『水曜日は働かない』

 宇野常寛さんの『水曜日は働かない』を読みました。タイトルは「水曜日が休みになると1年365日がすべて休日に隣接する」、という宇野さんによる天才的な発見に由来するものですが、その他にもいろいろなことを考えさせられるエッセイ集です。

 いろいろなエッセイをとても楽しく読んだのですが、そのなかで、収録されていた、「「書くこと」から「読むこと」へさかのぼる」というエッセイが、非常に考えさせられました。
 いま、宇野さんは「発信できる人になる」をテーマにしたスクールをやっているのですが、その背景について書かれている部分が、「学校でどういうことを子どもたちに身につけてほしいだろう」ということを考えるのと重なりました。読書メモを共有したいと思います。

一般的に文章力は読書量にある程度比例する。もちろんただ数を読めばよいわけではない。たとえば本を読むことが手段ではなく目的になりすぎている人――「読書メーター」やAmazonレビューに投稿することや、ブックカフェでこれ見よがしに趣味が良いとされている本を広げることに夢中になってしまう人――は、本を読んでいる自分を好きでいることのほうが大事になって、あまり内容を理解していない/しようともしないことが多いのも半ば常識だと思う(もちろん、そうじゃない人もたくさんいる)。しかしそれでも、絶対的な読書量がある程度ないと、文章の引き出しが少なくなってしまうことは間違いない。だから常識論として、「書く」力の基本は「読む」力だ。(p.234)

 宇野さんがここで大人を想定して書かれていると思いますが、中学校や高校での授業を見ていても、「読む」力が「書く」力の基本になっているというのは感じます。だからこそ、僕が関わっている教室では、できるだけいろいろな文章を楽しみながら読み、理解する喜びを感じてほしいと思いながら授業を組み立てたりもします。
 「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスの変化について、宇野さんは上の部分に続けて書いています。

そしてこうした前提の上で強く感じるのは、現代における「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスの変化だ。(略)端的に言えば僕はいま、読者の「書く」ことへの関心が想像以上に高まっているのを感じる。
理由は考えてみれば明白だ。僕たちの世代にとって、「読む」ことと「書く」ことでは前者が基礎で後者が応用だった。「読む」ことが当たり前の日常の行為で「書く」というのは非日常のちょっと特別な行為だった。けれどもいまはたぶん、違う。多くの人にとっては既に(メールやSNSに)「書く」ことのほうが当たり前の日常になっていて、(本などのまとまった文章を)「読む」ことのほうがちょっと特別な非日常のことになっていると思うのだ。情報環境の変化が「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスを大きく変えているのだ。

要するに、僕たちは「読む」ことの延長線上に「書く」ことを身につけてきた。しかし、現代の人々の多くは既にそうはならないだろう。彼ら/彼女らの多くがおそらく「書く」ことに「読む」ことより慣れている。(p.234-235)

 「書く」ことと「読む」ことを比べて、「書く」ことの方に慣れているようになったのは、SNSなどでみんなが発信をするようになってからだというのを読み、たしかにそうかもしれない、と思いました。さらに、人がオンラインで発信するようになって、どういう社会になっているかについても、宇野さんは続けて書いています。

Web2.0的なものの背景にあった、人間は単に受信するだけではなく、発信することによってより情報に対して深く、多角的に考えるようになる、という前提は根本から疑ってかかったほうが良いだろう。「読む」力のない人間が「書く」ことの快楽を覚えれば覚えるほど、脊髄反射的な発信やタイムラインの「潮目」を読んである方向に一石を投じるだけの、事実上何も考えていない発信が増えてしまう。そこで僕が以前から提唱している「遅いインターネット計画」では、まず徹底的に「読む」訓練を読者に対して行おうと考えている。しかし、計画を進める上でそれだけでは足りないのではないか、という思いが強くなってきた。
なぜならば現代の情報環境下に生きる人々は、読むことから書くことを覚えるのではなく、書くことから読むことを覚えるほうが自然だからだ。かつてのようにしっかり読ませること「から」しっかり書かせるというルートをたどることは、僕たちの生きているこの世界の「流れ」に逆らうことのように思えるのだ。現代において多くの人はまず、日常的に、脊髄反射的に、たいした思慮も検証もなく「書いて」しまう。それをまずは、しっかり「書ける」ように訓練を積んでもらう。その過程で「書く」ためには「読む」力が必要なのだと気づいてもらう。そして「読む」訓練をしてもらい、その上でもう一度「書く」技術を伸ばしてもらう。「読む」ことではなく「書く」ことを起点にした往復運動を設計しないと、このプロジェクトは成功しないのではないか。(p.235-236)

 こうした問題点を指摘されると、学校での「読む」と「書く」もあり方は変わらないといけないだろうと感じます。ただ「読む」だけでなくて、「読む」力をベースにして、問題に向き合う能力へと繋げていかなくてはいけないということが書かれます。

なぜ「読む」力が必要なのか。能力は高くないけれど、なにか社会に物を申したいという気持ちだけは強い人がSNSで発言しようとするとき、彼/彼女はその問題そのものではなくタイムラインの潮目のほうを読んでしまう。そしてYESかNOか、どちらに加担すべきかだけを判断する。(略)そう、タイムラインの潮目を読むのは簡単だ。その問題そのもの、対象そのものに触れることもなく、多角的な検証も背景の調査も必要なYESかNOだけを判断すれば良いのだから。しかし、具体的にその対象を論じようとすると話は全く変わってくる。そこには対象を解体し、分析し、他の何かと関連付けて化学反応を起こす能力が必要となる。(p.237-238)

 すべてを学校教育でやるべきなのか、学校教育で対応できるのか、ということは考えなくてはいけないと思いますが、少なくともデジタルテクノロジーの発展によって、社会における「読む」力と「書く」力のパワーバランスが変わってきているという認識を先生方が持つことは大きな意味があると思います。そうしたことを自分自身も考えていかなくてはいけないと感じました。

(為田)