小池陽慈 先生の編書、『つながる読書 10代に推したいこの一冊』を読みました。
「教育においてICTをどう使えるか?」をいろんな方向から書いていくのがこのブログのテーマですが、僕は子どもたちには(デジタル書籍だろうが紙の本だろうが)本をたくさん読んでほしいなと思っています。
全体が3部構成になっていて、「第1部 本のプレゼン」では、本のプロ(読むこと・書くこと)が、「若い人たちに是非読んでほしい!」という一冊を紹介してくれています。その後、「第2部 本とつながる 本でつながる」では、小池先生と読書猿さんの対談、「第3部 つながる読書」では、第1部でプレゼンしてくれた本のプロたちがつながったやりとりが読めます。
「第1部 本のプレゼン」の扉に書かれていた文章がとても良かったので引用します。
本というものが、「その本の「向こう側」の世界」への「扉」であるとするならば――本を書いたり読んだりする仕事に携わる方々は、例えばこれまでにどんな「扉」を押し、何をどう感じたのでしょうか、第1回、「本のプレゼン」大会、開会します。皆さん、お楽しみください!(p.13)
本当にそうです。「本は「向こう側」の世界への扉」だと思います。14人の本のプロの皆さんがプレゼンしてくれた本もおもしろくて読みたくなるものがたくさんありましたが、あえてここでは「本」や「子どもたちへの眼差し」が現れた言葉をシェアしたいと思います。
三宅香帆さん(書評家)のプレゼンから
まずは、書評家の三宅香帆さんです。プレゼンが「子どもの時くらい大変な時代なんて、ないです」という言葉から始まるのですが、これがとても素敵でした。そうかもしれないなあ、と思います。
子どもの時くらい大変な時代なんて、ないです。二十九歳になったいま、わたしがプレゼンを聞いているあなたに、それがいちばん伝えたいことです。
子ども時代が、いちばん大変です。大人なんて、子どもに比べれば楽なものですよ。本当に。子ども時代が、人生のなかでいちばんシビアでシリアスでしんどいです。いつの時代も子どもよりシビアな世界に生きてる大人なんているわけがありません。
「えっ、じゃあなぜみんなしんどい子ども時代に耐えられるの?」と聞かれたら、それは単に「初めて」だからだよと言いたくなります。初めてだから、勝手もよくわからず、人生ってこういうものなのかなーと受け入れているだけなんですね。
そう、だからこそ、絶対に大人になれば楽になります。今よりも、ずっと。
それだけは忘れないでくださいね。(p.18)
三宅さんは米原万里さんの『オリガ・モリソヴナの反語法』をぷれぜんしてくれているのですが、これがけっこうハードな小説らしいです。でも、そうした小説も読む意義がある、ということが書かれています。
人間が人間の尊厳を大切に扱わないさまを読むのは、小説といえど、傷つくかもしれません。こんなにも酷い環境があるのかと、胸が痛くなる。
しかしわたしは、そういう傷つく読書はたくさん必要だと思っています。
傷つかないフィクションに何の意味があるでしょう。もちろんフィクションに、癒やされたり元気をもらったりすることもたくさんある。だけどそれ以上に、わたしたちは、現実よりももっと深く自分の心を突き刺してくれる、そんな物語に触れることを求めているのです。
それはむしろ、現実で致命傷を負わないための、予防注射のようなものかもしれません。現実は過酷で、世界はタフな場所である。それを若い頃教えてくれるのは、学校の授業でも友達との関係でもなく、わたしは物語だと思っています。
物語を通して、擬似的に傷つくからこそ、しんどい現実を乗り越えられる。だってすでに物語を通して、少しだけ、強くなっているから。
『オリガ・モリソヴナの反語法』は、そういう意味で、わたしたちを正しく傷つけてくれる本です。こんなにも人間は酷い目に遭うことがあるのかと、たいして遠くない過去、遠くない土地で、本当にこんなことがあったのかと、胸が痛くなる。けれどそれを知らないより、知っていたほうが、ずっといい。
オリガ・モリソヴナの人生を知っている人生のほうが、ずっと、いい。(p.25-26)
小説(でなくても映画でもドラマでも何でもいいと思いますが)が、「現実で致命傷を負わないための、予防注射のようなものかもしれません」という言葉に賛同します。自分がリアルに酷い目に遭う必要は全然ないし、遭わない方がいいに決まっているけれど、酷い目に遭っている人のことを想像できること、その人の立場に身を置いてみることができるようになることは大事だと思います。
デジタルで、あらゆるコンテンツがサブスク化されて、自分の趣味嗜好に合わせてどんどんレコメンドされるようになってくると、こういう想像をする力は落ちていくのかもしれないな、と思います(これは子どもだけの話ではなく、大人も同じですね)。
三宅香帆さんの著書は、このブログでも2冊取り上げています。よろしければお読みいただければと思います。
宮崎智之さん(エッセイスト)のプレゼンから
エッセイストの宮崎智之さんの読書について書かれているところもすごくよかったので紹介します。
辛い時期を本が支えてくれた、「本を読んでいるときは、現実とは別の世界に行くことができました」というのは、多くの人に覚えがあるのではないかと思います。
鬱屈した時期を支えてくれたのが読書でした。本を読んでいるときは、現実とは別の世界に行くことができました。「本ばかり読んでいないで友達と遊びなさい」とお説教してくる人も、この世の中にはいるかもしれませんが、あれは嘘です。嘘ですというか、少し間違っています。
なぜなら、現実の友達と同じく、本も友達なのですから。本はいろいろなことを語りかけてくれます。ときには、こちらの話も聞いてくれます。嘘だと思うなら、今回のこの本のプレゼンを通して気に入った一冊を見つけ、何度も読み返してみてください。連続して読んでもいいし、十年くらい間をあけて読んでみてもいい。その時々で、本は違った表情を見せてくれます。違う表現で話してくれます。そして、同じ内容を読んでいるはずなのに、まったく別の感想を抱くときもあります。お互いを知り尽くしてからも付き合っていくのが、本当の友達ですよね。本はそういう存在です。
というのも、本は取扱説明書とは違うからです。つまり本に書かれているのは「情報」ではないのですね。もし、本に書かれているのが「情報」なら、一度読んで理解して終わりということになります。しかし、本は友達なのです。友達だから、その人のことを理解したからといって、サヨナラするわけではない。むしろ、現実の友達は、理解してからが本番のはずです。大いに語り、ときに喧嘩し、それでも一緒にいようとする。(p.31-32)
友達になれるような本に子どもが出会えたら素敵だなと思います。でも、そんな本に出会うためには、本を読めるだけの基礎体力みたいなものが必要だとも思いますし、いろんな作品にふれるきっかけになるような扉は必要で、この『つながる読書』のような本や、学校の図書室や、国語の教科書や、そうしたいろいろな入口と子どもたちが出会えたらいいな、と思いました。
ここ1~2年、僕は宮崎さんに大きな影響を受けています。宮崎さんの書いたエッセイ『平熱のまま、この世界に熱狂したい』に救われたような気持ちがとてもしているし、Spotifyで配信されているラジオ番組「BOOK READING CLUB」もずっと聴いていて、新しい本との出会いを得ています。
おわりに
僕自身が読書が身近にあって救われたことがたくさんあったので、これからの子どもたちも、デジタル書籍でも紙の本でもどちらでもいいので、本をただの「情報」としてではなくて、「向こう側の世界への扉」として手にとってもらうことが多くあればいいな、と思いました。
(為田)