谷川嘉浩さん・朱喜哲さん・杉谷和哉さんの対話がまとめられた『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』を読みました。「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉は、この本の対話者である谷川嘉浩さんの『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』を読んで以来、ずっと関心があった言葉です。
ネガティヴ・ケイパビリティは、物事を宙づりにしたまま抱えておく力を指しています。つまり、謎や不可解な物事、問題に直面したときに、簡単に解決したり、安易に納得したりしない能力です。説明がすぐにはつけ難い事柄に対峙したとき、即断せずにわからないままに留めながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける力だと言ってもいいでしょう。(p.2-3)
3回にわたって行われた対話がまとめられていて、いろいろなテーマが語られているのですが、そのなかで特に学校教育に関連しそうだと思ったところを読書メモとして共有したいと思います。
第1章 「一問一答」的世界観から逃れる方法
まずは、ネガティヴ・ケイパビリティと「話す/聞く」「アウトプットする/インプットする」の関係について書かれているところです。SNSで聞く姿勢が奪われている、ということが書かれていますが、これ教室でも同じようなことを感じることがあります。
谷川 この世のあらゆる出来事について、自分の頭で答えを見つけ、それを人に話しさえすればいいと思っている、それが私たち近代人だということですよ。この姿勢って、市民としての真面目さの表れ、ポジティヴ・ケイパビリティの表れですよね。しかし、まさにこういう習慣こそがネガティヴ・ケイパビリティを腐食させているわけですよ。だから、「話す」「アウトプットする」と対比される「聞く」「インプットする」の側を復権するというのが一つなのかなと。
杉谷 今のSNSで聞く姿勢を奪っているものがあるとすれば、朱さんのLINEスタンプの話ではないですが、それは画像ベースのコミュニケーションだと思います。スマートフォンのカメラロールに、たくさんコラ画像とか漫画の切り抜きを取っておいて、気に入らないツイートを見かけたら、何か一つ選んで貼り付ける。それは、大体において煽り画像で、ぎゃふんと言わせてやった、論破したみたいな雰囲気になるんですよね。本当は、意味を伝達し合うとか、そういう中身のやりとりがしたいわけじゃなくて、何かわかりやすいキラーフレーズや画像を投げつけて、「うまいこと言ってやった」ということが大事なわけです。
(p.66-67)
じっくり対話する姿勢を作ること、そのために聞く姿勢を作ること、そういうのは学校の授業でやりたいな、と思いながら読みました。
谷川 ネガティヴ・ケイパビリティをどうすれば身につけられるかというより、いかにそれが難しいかという説明なんですが、「積極的な発信」という点でいうと、ファシリテーション(なめらかな対話や議論を促す手法のこと)やワークショップ(特定の体験を提供するよう設計されたイベント的な学習機会のこと)など、対話を重視する言説ってそれなりに力を持っていますよね。それを補助線にしたい。
2021年に『ファシリテーションとは何か:コミュニケーション幻想を超えて』(ナカニシヤ出版)という本が出ました。この本のいくつかの面白い指摘のうちの一つが、「ファシリテートされた環境での議論に慣れると、自然にやりとりして何か発信して展開する能力があるという感覚が植え付けられるけれど、実際にはお膳立てされた状況での議論や発話に慣れているだけで、梯子を外されたときにこの人たちはどうするんだ」というものです。
(略)この話を私たちの文脈につなげると、ファシリテーションやワークショップが、ネガティヴ・ケイパビリティの形成にとってプラスになっていない可能性があるということです。話しやすい環境で話す練習はしているけれど、言葉も議論も出てこない状況で、お膳立て抜きに立ち止まってじっくり言葉を育てていくような訓練はどこにもないし、本当は、そういう学習が必要なんじゃないかと、ファシリテーションの当事者たちが言っている話としても読めるなと思って面白かったんです。朱 なるほど。
谷川 ワークショップを企画するとき、「参加者は、モヤモヤ考えるよりも、わかりやすく何かやった感覚、すごいことを達成した感覚を持ちたがるんです」と言われることは多いですね。簡単にペラペラ話せる話題に絞ることを求められる。それに、今は小学校から大学まで、教育現場では「アクティブ・ラーニング」といって、インプットではなくて、双方向性や発信を重視する形式の授業が推進されています。予備校や塾、参考書などでは授業対策として「こういう風に話そうね」という語りのフォーマットを整備してます。こんな風に、なめらかに発話することが学習のさまざまな局面で重視されていますよね。
(p.67-69)
学校での「アクティブ・ラーニング」へのクリティカルな視線は大事だと思います。簡単にペラペラ話せることでなくても、自分の中にあるモヤモヤしたことをたどたどしくても少しずつでも発信して、それを聴いてくれる人がいる授業をしたいな、と思いました。
第2章 自分に都合のいいナラティヴを離れる方法
続いて、リチャード・ローティの教育論について書かれていた部分です。社会化(socialization)と、個人化・個性化(individualization)について書かれていました。
朱 プラグマティズムの研究者であるリチャード・ローティという哲学者が興味深い教育論を描いているんです。彼によると、教育は二つの機能がある。社会化(socialization)と、個人化・個性化(individualization)で、その両方が必要なことだけれども、ローティはこれについて明確な順序関係があるんだと言うんですね。アメリカにおけるハイスクールまでは、まずは社会化をやらなければいけないと。しかるのち、高等教育においては個性化をやるんだという図式的な順序関係を設けたんです。かなり単純化された図式なので、アメリカ教育界では右派からも左派からも叩かれました。
「社会化」はわかりやすい。その社会のコモンセンス、常識とされているものについて伝えること。たとえば人権も、永遠の真理というより歴史的に作られてきた価値なので、それを尊重する姿勢は教育によって伝えていくしかない。ただ、これは教え込むもの、注入するものではなくて、態度を通じて伝えていくもの。だから、この社会が大切にしてきた価値への共感をどう育てていくかという問題なんですね。谷川 モデリング(観察学習)みたいなものですかね。モデルとなるあり方を観察することで成立する学び。ロールモデルのような。
朱 で、ここが大事なところなんですが、社会化の先にある個性化が何かというと、物事を書き換え続けること、語り直し続けることなんですね。考えや意見、価値を改訂可能性に開いていくこと、もっと言うと、そうして意見や考えをいくらでも書き換えていくことを楽しめるパーソナリティを育むことが、インディビジュアライゼーションの内実なんです。
谷川 社会問題について話し合うと最後に出てくる「考え続けないといけない」という決まり文句がありますが、あれをストレートに生きることを要求するわけですね。それを楽しめる人間を育てる。
朱 ローティの教育論は、ある意味で残酷な話でもあるんです。ローティ自身も書いているんですが、この順番でやる限り、アメリカにおいてインディビジュアライゼーションにたどり着く人は一部しかいないことをよしとしてしまう。
杉谷 つまり大学に行って初めて……っていうことですよね。
朱 そう。この含意は、批判や議論にオープンで、自分の考えを柔軟に変えていくのって特殊なスキルや態度だということなんですよ。議論に対して開かれている、対話の最低限のマナーを持つことができるというのは、自分が変更に対して開かれているということです。そのためには自身に余裕や強靭さがあることによって、変わることの不安に向き合うことができる必要がある。
谷川 ああ、確かに。ふつうは、対人論証じゃなくても批判されたらムッとしますもんね。でも、たとえば学者や研究者は、批判されることにウェルカムだという前提ですけど、それは一般に難しい。
(p.85-87)
ここで書かれている、社会化(socialization)と、個人化・個性化(individualization)の話、とても興味深かったです。個人化・個性化は、「物事を書き換え続けること」「語り直し続けること」「考えや意見、価値を改訂可能性に開いていくこと」と書かれているのですが、この考え方、僕はとても好きです。
そうして、「意見や考えをいくらでも書き換えていくことを楽しめるパーソナリティを育むこと」に繋がっていく。こういう子どもを育てたいです。自分が考えるときに使える言葉をもらえた気がします。「意見や考えをいくらでも書き換えていくことを楽しめるパーソナリティを育むこと」。これから使っていきます。
どんな言葉・ボキャブラリーをもっているか、ということは大事だということが続けて書かれていました。
朱 近年も映画「ジョーカー」(2019年)で話題になりましたが、すでに社会的に失うものが何もないゆえに躊躇なく犯罪をおかす「無敵の人」というインターネットミームもありましたね。最弱であることが最強というか、最も苦しい属性の組み合わせを探しにかかろうとしている。ネットでは「私たちは取りこぼされている」というボキャブラリーばかりが目につく。つまり、そもそもソーシャライズの段階がうまくいっていないように見えるんですね。このように自分の社会的に「弱い」とされる属性を中心的なアイデンティティに据えて、それに基づいてよくある言葉遣いで不遇さや不満を社会に訴える「弱さの競争」とは違う路線を考えたとき、ある種の文学表現に力があるのかもしれないなと思います。つまり、「これは自分の言葉だ」と思えるような多様な言葉を作っていくこと。
杉谷 確かに。
谷川 哲学者のミランダ・フリッカーが「解釈的不正義」という用語で追求している路線ですね。社会で周縁に位置づけられてしまう属性の人たちは、自分の経験をうまく理解したり、他者に伝えたり、語り合ったりすることがうまくできないことがある。そのしんどさ、もどかしさの社会的要因は、その経験を表現するにふさわしい言葉がなかったり、当事者がアクセスできなかったりすることにある。そういう言説面での不正義、これをどう超えていくか。
(p.89-90)
「これは自分の言葉だ」と思えるような多様な言葉を作っていくことが大事と書かれています。
この後で、逆に自分の言葉をもたない人、自分の言葉を奪われている人がいることについても書かれていました。
谷川 朱さんが挙げてくださったのとは違う例では、「当事者研究」と呼ばれる潮流も、しんどさを抱える人たちがそれぞれの経験を理解し伝えていくための語彙を豊かにしようとしていると思います。東京大学の熊谷晋一郎さんは脳性麻痺当事者ですが、健常者向けに作られた言葉がフィットしないから、「言葉のユニバーサルデザイン」が必要だという話をしていました(『当事者研究:等身大の<わたし>の発見と回復』岩波書店)。
(p.92)
この視点、とても大事だと思いました。僕は、「自分の言葉をもっている人の側」にいて考えている。だから、「自分の言葉をもっていない人の側」によほどがんばって意識しないと立てない。学校でたくさんの先生方と接するときに考える必要があることだと思います(もちろん、子どもたちに接するときにも)。
自分の言葉をもっている人が、自分の言葉でしか話さないと、永久に分かり合えない。こういうコミュニケーションになってはいけないと思います。このあたり、すごく興味深いです。
第5章 「言葉に乗っ取られない」ために必要なこと
「自分の言葉」ということを考える対話が続いていきます。自分の言葉って、何度も語っているうちに自分自身をも洗脳してきます。そしてどんどん考えが固まってきて、第2章に書かれていた、「考えや意見、価値を改訂可能性に開いていくこと」ということができなくなってしまう。そうならないようにしなくては。
谷川 プライベートなものを扱う言葉遣いが足りないということについて、私も思考の刺激を受けていろいろ考えて、二つのことを思い出しました。まず、評論家の荻上チキさんが『みらいめがね2 苦手科目は「人生」です』(暮らしの手帖社)という本で、「金づちしか持っていない人は全ての物が釘に見える」という格言を押し広げて、「限られた語彙しかなかったら、すべてがその語彙で理解されてしまう」という話をしていたんです。これが一つ。
もう一つは、上間陽子さんと信田さよ子さんの対談本で、信田さんが、性被害を受けた人のカウンセリングでは、ある局面で特定の言葉を禁じるって言っているんですよね。たとえば、「母の愛」「女たるもの」「娘だから」「そうはいっても家族だから」といった類の言葉を禁止して、その人の体験が、ありがちな「家族愛の話」に回収されないようにすると。(p.181)
「限られた語彙しかなかったら、すべてがその語彙で理解されてしまう」。ああ、そうだと思いました。だから、語彙を増やしたい。語彙を自分で増やせるように、きちんと文章を読んで、自分の考えをもてるように、学んでほしい、と思っています。それこそ、小学校から高校で子どもたちに学んでほしい(=先生に教えてほしい)と僕が思っていることです。
イントロダクション 徳と観察をめぐって
3回の対話の前に、それぞれイントロダクションがあるのですが、谷川さんが書いていた「イントロダクション 徳と観察をめぐって」のなかに、ネガティヴ・ケイパビリティを学校で子どもたちに伝えようとしたときに陥ってしまいそうなことが書いてあったので、これもメモしておきました。
ネガティヴ・ケイパビリティは、「わからなくていい」と開き直ることとも、「考え続けよう」と号令をかけることとも違います。ネガティヴ・ケイパビリティは、何かに安易な落とし所に考えを落ち着けず、揺れながら考え続けることです。だから、それらの見かけはネガティヴ・ケイパビリティと似ていますが、実際には思考停止にすぎません。(p.186)
「ネガティヴ・ケイパビリティは、「わからなくていい」と開き直ることとも、「考え続けよう」と号令をかけることとも違います」。これ、大事です。「揺れながら考え続けること」なのです。
いろいろなコミュニティに属し、それぞれの共同体の方言を身につけて多言語話者になることで、私たちは目の前の現実を多様な仕方で語ることができるようになるかもしれないし、他者に対して多様なアプローチで会話することができるようになるかもしれない。いろいろな仕方で現実と関わることができるからこそ、目の前の事柄や人物を、簡単にわかろうとも、安易に語ろうともせず、開かれた可能性の下で関わっていくことができるのではないか。(p.187)
自分だけの言葉をもつだけでなく、他の人の言葉も身につけること。それで、「他者に対して多様なアプローチで会話することができるようになるかもしれない」。希望があることだと思います。
第6章 自分のナラティヴ/言葉を持つこと
第5章のところで、語彙を自分で増やせるように文章を読んで、自分の考えをもてるように学校で学んでほしい、と書きました。第6章では、語彙(言葉)を増やすために、フィクションに触れる良さが書かれていました。本でもいいし、映像作品でも音楽でも、どんなものでもいいと思うのですが、フィクションは世界を広げてくれるので、フィクションを楽しめて、理解できることは大事だなと思います。
朱 僕たちは別に自己相対化を目的としてフィクションに触れているわけではない。それでも、優れたフィクションに接すると、結果的に他者の人生を味わうことができたり、自分には理解不可能に思えるような特殊なボキャブラリーを使っている人たちを内側から眺めることができたりする。そこに教育効果があるのは確かですよね。
(p.217)
もう1か所、すごくグサッときたところも紹介したいです。大きな社会構想を語る本はたくさんあります(しばしば、ネットでバズったりベストセラーになったりもします)。そうした大きな社会構想を語る人と、情報として受け取る人について書かれていたところです。
谷川 この手の大きな社会構想を話す論者たちって、読者をそういうアルゴリズムやルールを構想・運営する側の視点に自然に立たせているところがありますよね。落合陽一さんとか、古くだと堺屋太一とかアルヴィン・トフラーも同じですが、『22世紀の民主主義』を読む人は、自分が民主主義や未来社会のグランドデザインをする側に自分を無意識に置いてしまう。そこが問題なんじゃないですか。ネットレビューをざっと見た限り、自分が知らずに選択肢をナッジされる側だという視点の人はいない。
効率よく効果的に下々を統制する側の目線なんですよ。自分や自分の周りの人がエリートから零れ落ちる側かもしれないという視点はなくて、なんとなく勝ち馬に乗っているつもりになってしまう。(p.228-229)
自分が零れ落ちる側かもしれないという視点は、たしかに僕にもなかったです。傲慢だった…。零れ落ちたら、自分の言葉をもてなくなるのかもしれないです。こういう視点も本当に大事だと思いました。
第8章 イベントとしての日常から、エピソードとしての日常へ
第8章では、「紋切型の表現」で話すことは何がよくないのか、ということが書かれていました。
谷川 鶴見俊輔がよく「紋切型の表現はよくない」「お守りみたいに定型句や熟語を口にするのはよくない」と言うんですね。それがなぜかというと、パッケージ的な関わり方、マニュアル的な理解がもたらされるからですよね。むしろ、世界や他者に対する解像度を上げることが大切で、それによって知覚が変化すると、ありがちな定型として相手を捉えたり、紋切型でしゃべったりすることが薄ら寒くなってくる。
たとえば、恋人だからといって、謎のウェブサイトが語るデートマニュアルに従ったり、妙な恋愛映画のまねごとをしたりすれば、相手が喜ぶかというとそんなわけない。そうではなく、相手をよく知って、自分がその人と積み上げてきた時間を踏まえた上で、一緒に自分たちの言葉を作っていくことが大事ですよね。つまり、自分たちの関わり方やノリを一緒に作り続けていけるかというところが問題なんですよね。一見、めちゃくちゃ普通のことを言っていますけど。朱 この話はコミュニケーション強者だけができるという話ではないと思うんですよね。友達いっぱいいるからといって、かけがえのない関係性がどれだけあるかというと、また違ったりするでしょうし。だからこれはコミュニケーション能力ではなく、そこでしかありえない言葉遣いを話すようになる関係性を持つ楽しさに気づけるかどうかという問題なんじゃないかなと。
(p.269-270)
紋切型の表現がよくないのは、「パッケージ的な関わり方、マニュアル的な理解がもたらされるから」と書かれています。これ、学校に文部科学省からたくさんおりてくるたくさんの言葉を思い起こさせます。
政策として実施するためには、「紋切型の表現」は必要なのですが、最後の現場では「紋切型の表現」からそれぞれの学校の状況に合わせて「パッケージ的な関わり方」「マニュアル的な理解」から脱する余地がないと、政策の実現も難しいな、といつも感じています。
では、どうすればいいのか?というのを考えるときに、大事なのは「エピソード」なのではないかと思いました。
谷川 しゃべりながら思いついたんですけど、鶴見俊輔は、小説家の重松清との対談で「エピソードのない友情は寂しい」と言っている(『ぼくはこう生きている 君はどうか』潮文庫)。どちらも日常を捉える手がかりになるけど、エピソードとイベントって、方向性が違う気がするんです。
バレンタイン、遊園地、バーベキューのような祝祭的な「イベント」とは違う、そこでしかありえない関係性が表現されているのが「エピソード」なのかなと思う。この先に何があるかわからないまま対比をしていますが、どうでしょう。杉谷 イベントやSNSを介さないと関係性が作れないし、イベントをフックにしないと集まれない、関心を喚起できない社会になっているというのは、そうかもしれないですね。
朱 それは面白いな。それって、僕が途中で言ったSNSの副作用にもつながりますね。以前はポジショナリティを明示させられるという言い方をしましたが、主題があって、写真や言葉が投稿できるというSNSの設計に、私たちがフレーミングされちゃうんですよね。だから、私たちの思考が投稿単位、ポストする単位になっている。イベント化というのは、まさにその影響かもしれない。でも、谷川さんが暗に言っていたように、別に人生はイベントに満ちてはいないし、リア充やパリピだって、ずっと祝祭的なイベントばかりをやっているわけではなくて、そうフレーミングされているだけだという話ですよね。
谷川 SNSを通じて世界にイベントが満ちているとフレーミングされ続けているんだと思います。
朱 イベントとエピソードを対比させるというのは、面白いと思います。だって、帰り道にしゃべった何気ない時間が実験的な言語化の場面だったということがありえるわけですよね。それはイベントではないけど、エピソードではありえる。それは、SNSでシェアできるようなものではないんだけど、そこで行われた会話が自分を形づくるのであれば、確かに自分に変容をもたらしているし、意義深いことですよね。
(p.272-274)
学校での「エピソード」にもっと注目してみようと思いました。イベントとエピソードの対比、とても面白い視点です。
まとめ(というか、感想)
対話の内容がとても濃くて、僕の読書メモを読んでも「断片的過ぎてこんなのわからない…」と言う人が多いと思います。すみません。でも、すごく興味深い対話なので、ぜひ『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』、読んでみてください。朱さんと谷川さんの書籍は、これまでにも読書メモを共有していますので、もしよろしければ、以下のエントリーも読んでみてください。
「意見や考えをいくらでも書き換えていくことを楽しめるパーソナリティを育むこと」という言葉、僕ができる範囲で教育にインストールしていきたいと思います。
(為田)