教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『勉強の価値』

 森博嗣さんの『勉強の価値』を読みました。「勉強とは?」ということについて、ミステリィ作家(もとは大学の先生)である森先生が書いてくれています。ICTに直接は関係しないと思いつつ、「ICTを使って勉強する」という文脈で考えれば、いろいろと考えるヒントが見つかりましたので、メモを公開したいと思います。

「勉強とは何か」

 まずは、「勉強とは何か?」という問いについて書かれていた部分です。僕は、子どもの頃から学校の勉強をすることがそんなに嫌いではありませんでした。成績は良かったり悪かったりはありましたが、勉強自体は嫌いじゃなかったんです。でも、もちろんクラスメイトには学校の勉強がどうしようもなく嫌いな人もいたし、そうした人たちにとって、「勉強」とはどういう意味があるのか、どれくらい我慢して勉強するべきなのかとか、考える機会は今、教育業界で仕事をしていてもずっと思っていることです。

ただ単に、「勉強」があまりに美化されていたり、あまりに都合の良い言葉で飾られているから、それはちょっと言い過ぎだ、というだけの話かもしれない。これは、「努力」でも、同じ傾向が見られる。努力とは、無条件に良いもの、素晴らしいものであり、努力さえすれば、誰でも思い通りの成功を手に入れることができる、という幻想を多くのマスコミ、多くの大人たちが語る。多くの建前が、それを謳っている。はっきりいうが、こういうのを「綺麗事」というのである。
(略)
簡単にいえば、「勉強」というのは、「目前の利ではなく、将来の大きな利を期待して、現在の苦を選択すること」といえるだろう。(p.22)

この本の結論は、「勉強はした方が良い」ということになってしまう。
ただ、その理由として、人に勝つためでもなく、また社会的な成功へ自分を導くのでもなく、最も単純な個人的な願望に焦点を当てる、という点で、これまでにない視点を読者にもたらすかもしれない。(p.23-24)

 「将来のために勉強しなさい」ということですよね。僕は実はこの考え方に近いんです。「将来、何かしたいことが見つかったときに、その可能性が閉ざされていることがないように、可能性を多くもっておくために、いろいろなことを学んでおくといいよ(勉強しておくといいよ)」と思っています。
 そんなことを思いながら、読み進めていくと、勉強を「目的」と「過程」という言葉を使っての説明が出てきました。
 

勉強というのは、その行為に目的があるのではない、という点が重要なのだ。なにか、ほかに目的がある。そして、そのための過程が「勉強」と呼ばれているだけである。したがって、その過程を楽しめるかどうか、という問題は、本来の目的が見えていないわけで、そもそも問題でもない。どうでも良いことだといっても過言ではない。
わかりやすく例を挙げよう。たとえば、金槌で釘を打つこと、これが「勉強」というものの本質である。もし、金槌で釘を打つことが楽しいという人がいれば、それはそれで幸せである。一生その趣味を続けて、釘を打ち続ければよろしい。しかし、普通は、釘を打つ目的がほかにある。その目的が、釘を打つ行為を始めるよりもさきにある場合は、釘を打つことが楽しく感じられるだろう。自分が作りたいものがどんどん出来上がっていくし、また、釘の打ち方もしだいに上達するはずである。これもまた、楽しい体験となる。だが、その楽しさは、「作りたいもの」へ近づくプロセスが生み出している。
一方、まだ作りたいものがない人、作る目的がない人に、釘の打ち方を教えるとしたらどうだろうか?それを教わる人は、いったい何が楽しいのか、まったくわからない。非常につまらない、と感じるだろう。もっと楽しいことが沢山あるのに、どうしてこんなことをしなければならないのか、と考えるはずだ。
(略)
「釘の打ち方は、将来社会に出て、必ず役に立つ」と口を酸っぱくして教える手はある。また、「釘を上手く打てれば、みんなが注目する」などと言って教えるのも、まあ、それなりに効果を挙げるだろう。だが、はっきりいって、釘を打つことの本質を見失っているし、半分くらい子供を騙しているといえるのではないか。(p.25-27)

 そして、「釘の打ち方」を勉強するのを楽しくするためにできる唯一のケースが紹介されます。

釘打ちを学ぶことが楽しく感じられる、唯一のケースは、作りたいものが目前にある場合である。
作りたいものとは、「作りましょう」と他者から提示されたものではない。そのように用意された目的は、やはり一時の幻想といえる。「こんな立派な本棚がつくれますよ、これを皆さんでこれから作りましょう」というような、釘打ちの学び方では駄目だ、ということである。ここを注意していただきたい。
そうではなく、自分が作りたいものがあって、そのためには、どうしても釘を打たなければならないことが判明する。だから、釘の打ち方を勉強したい。そうなって初めて、その勉強に意味が浮上し、価値が生じるのである。(p.27-28)

 プロジェクト型学習との関連を考えますね。でも、他者から提示されずに、「作りましょう」と思えるものにはどんなものがあるだろう。初等中等教育(小学校~高校)で、どんな「作りたいもの」が見つかれば、勉強に意味を持つだろう、と考えながら読んでいたら、義務教育について触れられていました。

学ぶための方法(学ぶという方法の方法)を教えているのが、義務教育だといえる。
文章が読めなければ、自分で学ぼうと思ったときに大きな困難が伴う。数字の計算ができないことも、自分の夢を実現する方法を試すときに障害となるだろう。基礎学力は、そういった意味で必要不可欠なものである。ただ、その学習は全然楽しいものではない。だが、のちのちの自分の可能性を狭めることにつながるので、騙されたと思ってやっておくしかない。子供たちには、はっきりとそう教えることが必要である。「楽しくないけれど我慢しなさい」と説得することが正しい。大人は、子供に対して正直になるべきだし、子供も、大人の正直さを見定める能力を持っているはずだ。(p.29-30)

 ぐるっとまわって最初に帰ってきてしまった(笑) このあたり、ずっと自分は考え続けたいところです。でも、いつか出会える「作りたいもの」、これは工作的な意味だけではなく、事業や仕事の成果や仕組みや人との関係性など全部含めて考えればいいと思うんですけど(このあたり、井庭崇 先生の『クリエイティブ・ラーニング』と繋がります)、「作りたいもの」を手にしたときに、どうすればいいかの「学び方」を学ぶことだ大事だと思います。

義務教育において、一番大切な目標は、この「自分の勉強の発見」だ、と僕は考えている。これを摑んだ子供には、もう学校の先生が必要ない。自分一人で、勉強をすることができるようになるだろう。
そして、実はそこからが、本当の勉強なのである。(p.62)

 だったら、学校での勉強は無駄なのか?という疑問についても、森先生は書いています。

だったら、勉強は無駄なのか、と疑問を呈する方がいらっしゃるはずである。僕自身、中学や高校のときは定期試験を一夜漬けで乗り切った。その経験から、いざとなれば半日でこれくらいの情報量は頭に入る、という自信がつく。記憶に関して、自分がどの程度の能力を持っているかを測ることができた。その意味では、有意義だった。
学校の勉強というのは、そういう「自覚」が一番の成果だと考えて良いだろう。覚えたことをテストで試し、自分の能力を測っている。このとき、さきほどまで書いてきたように、他者との比較もそこそこ大事ではあるが、それよりももっと注目すべきなのは、自分の行動と効果の評価だ。
どれくらいの努力で、一時的にせよ、どの程度の能力が身につくのか。それを知っていることは、その後のあらゆる活動において、目的に向かってなにがしかの努力をするときの計画の基準となる。
いわば、「己を知る」行為である。勉強をしないと、己を知ることができないまま社会に出ることになる。社会人として直面する種々の問題に対して、自分がどう対処すれば良いのかわからない人間になるだろう。
こういう人は必然的に、他者から細かく指示されないと行動できない。上司から命令されないと動けない。仕事の多くは、おおかた指示があって、それに従うものではあるけれど、それは短期間のバイトや、社会に出てまだ新人のうちの話だ。ある程度経験を積めば、上から命じられそうなことを、あらかじめ準備する必要がある。また、仕事を任されるようになると、自分で判断し、自分で計画しなければならない立場になるだろう。そのときに、若いときの勉強という経験で、頭を使う練習をしていたかどうかが効いてくるはずだ。(p.144-145)

 なるほど、「己を知る」ために、勉強が尺度になるということか。これはおもしろい視点だなと思いました。ちょっと子どもたちに言ってみたいような気もします。

学校の勉強に足りていないもの

 森先生は、この本の第4章で、「学校で勉強をする意味」についても書いています。小見出しをいくつか抜き出してみると、「学校ではチームプレィを習わない」「日本人は「議論」を学校で学ばない」「日本語は論理的ではない」「作文やスケッチが大嫌いだった」「テーマを決める発想力は学べない」などが並んでいます。

 このあたりは、ICTが一人1台で使えるようになって、これから変わっていくところかもしれないな、と思っています。

小学校や中学校の体育の授業を思い出してみても、チームとして戦略を立てたりするほど、いわゆる「チームプレィ」をするような機会はなかった。単に、そのスポーツのルールを学び、躰の使い方を教えてもらうだけだった。
これは、学科の勉強でも、だいたい同じことがいえる。国語も算数も、どの教科も、個人的な勉強しかしない。友達と力を合わせて作文を考えるとか、算数の問題をグループで解く、といった体験はなかった。(p.147-148)

 「算数の問題をグループで解く」は、すでにやられている先生方はたくさんいらっしゃると思いますが、「友達と力を合わせて作文を考える」とかは、デジタルがあるとすごくやりやすくなるように思います。

本の学校教育で、最も欠けている分野は、「議論」ではないかと思う。意見を述べたり、相手を説得したり、相手と意見を戦わせたりする体験を、あまりしていないように見受けられる。海外では、これらが非常に重んじられているので、それに比べて、不足を感じる。
議論をするためには、論理を学ぶ必要がある。これは、科目としては国語か数学だろう。僕が子供の頃には、数学で集合論を習ったり、あるいは確率論なども習ったので、これらは議論に役立つものといえる。国語の授業では、この種の論理に関する教育を受けた覚えがない。今の学校では、行われているのだろうか?
少なくとも、僕は習っていない。議論のし方、論理の組み立て方は、社会人になってから自分で学んだ。おそらく、日本の教育界は、「各自で学べ」という方針なのだろう。
(略)
学校は、せっかく大勢が集まっているのだから、議論を勉強する場として、これほど適したことろはないはずだ。(p.148-149)

 「議論」を学校で勉強する、というのは大賛成です。そのためには、自分の意見を発信する機会が多くなければいけないし、クラスメイトの意見を見る機会が多くなければいけない。ICTはこうした点も解決してくれると思います。

たとえば、作文の授業であれば、多くの場合、テーマが決まっている。何について書くか、という課題が与えられ、それについて考えるだけだ。これは、対象物を目の前に置き、それを正確に、見たままにスケッチしなさい、というのと同じである。
このような行為は、訓練としては意味がある。おそらく、社会に出て仕事に就いたときにも、報告書を書かされるから、見たままに、わかりやすく描写することが求められるだろう。そのための良い訓練にはなる。
しかしながら、それが文章を書くことだ、絵を描くことだ、と子供たちは誤解する可能性が高い。僕は子供のとき、これらの授業に対して、「なんてつまらないことをさせるのだろう」と感じた。作文なんか大嫌いになったし、スケッチの時間も退屈でしかたがなかった。やっていることが、とにかく楽しくなかったのだ。
(略)
これは、釘を打つ練習をさせているのだから、楽しくないのは当たり前である。けれど、「本来の作業は、こんなふうではないよ」というくらいは教えてもらいたかった。作文もスケッチも、それくらい未来に向けた展望を、先生は語って欲しい。(p.151-152)

勉強で、「自分を客観視」できるようになる

 ICTを活用することで、勉強の成果を端末に全部ポートフォリオとして持っておくこともできるようになります。クラウドに保存しておくのでもいいと思います。そうすることで、「自分が何をできるようになったのか」「前はできなかったけど、いまはできるようになった」「先生や友達とどんな議論をしてきたのか」ということが可視化できるようになるし、いつでもそれにアクセスできるようになります。これらは、ICTを学校で使う大きな利点になると思います。

ある個人をずっと見守っているのは、結局は本人以外にいない。つまり、もし学ぼうと思ったら、自分を先生にするしかない、という理屈になる。
自身を見守るには、自分を客観視できなければならない。自分がどう考え、どうしたいのかを常に観察する別の自分が、あなたを指導する適任者である。(p.172)

大学での試験のひとつの方法

 最後の方に書いてあって、おもしろいなと思ったのは、大学での試験についての話でした。課題の出し方として、「講義を聴いて、質問を考える」というのを、全公開で行うというものですが、非常におもしろいなと思いました。

大学入試で小論文の採点を担当したときにも同じことを感じた。小論文のテーマは、環境問題や社会問題など、近年話題になったテーマが出題されるため、予備校などで対策をし、模範解答を大勢が暗記してくる。大学側も奇抜な問題は出しにくいので、ほぼ期待どおりの出題をする。結果として、八割くらいの人がほとんど同じ文章を書いてくる。これでは、まったく学力の評価ができない。試験として機能していないのではないか、と僕は感じた(もっとも、そういった準備をしてきたかどうか、という姿勢を評価することはでき、それで充分だと考えもあるだろう)。
担当した講義では、最初のうちは試験を行っていたが、講義の時間中に、全員に質問を指せることにした。それぞれに質問させると時間がかかるから、小さな紙切れに質問を書かせ、それを回収する。質問は、せいぜい五十文字か百文字程度である。
(略)
そのうち、全員の質問をワープロで打って、それぞれへの回答と併せてプリントし配布することにした。誰がどんな質問をしたのか、全員に知られることになる(もちろん、プリントすると事前にアナウンスをするから、恥ずかしいことは書くな、と注意した)。
こうすると、途端に他者の目を意識してか、質問内容を多くの学生が真剣に考えるようになった。同じような質問が多いと、自分の凡庸さが自覚される。なにか良い質問はないか、しかも講義に関する重要な点でなければならない。たった一行の質問をするために、講義をよく聴く結果にもなる。
最終的には、試験をやめて、僕はこの質問で成績をつけることにした。これは重要なポイントである。すなわち、どう答えるのかではなく、何を問うかで、その人間の理解度を測ることができると気づいたからだ。
良い質問をするためには、講義の内容を理解し、それまでの知識が頭の中で整理されている必要がある。毎回の質問、つまり十問くらいの質問の内容で、的確にその学生の理解度を評価することができた。(p.193-195)

 これも、一人1台の端末をもつ時代のひとつの評価の方法として、選択肢に入るかもしれないな、と思いました。

おまけ

 ちなみに、森博嗣先生のミステリィにはまったのは、社会人1年目、神戸で勤めていたころでした。買い漁ったし、会社の先輩達と同行した出張中にも電車の中で読んでたりしたのを思い出しました。

 「勉強する価値」について、いろいろな視点から考える機会を得られた読書になりました。すぐに「学校をどう変えるか」に繋がるものではないですが、こうしたいろいろな視点を自分にインストールしていくことは大事だと思っています。

(為田)